―黒猫―



か細い声で 鳴いていた 雨の中
ただ ただ生きようとしていた 小さな黒猫




 雨の中、弱々しく鳴く声が聞こえた。道具屋から宿へと戻る途中、ふとその声に気付いたナッシュは辺りを見回す。注意深く鳴き声を辿ると、路地の隅に黒く小さい何かが、ぴゃあぴゃあと、必死に途切れそうな声を上げていた。

 「……子猫?」

 しゃがみこんで見ると、小さな黒い猫が、雨にじっとりと濡れた身体を震わせ、か細い声で鳴きながら金の綺麗な瞳で見上げてきた。その双眸に、何となく…今は宿で待っている筈の旅の相棒を思い出し、どうもこのまま放っておくのもどうかと思い、そっとその子猫を懐に抱くと、宿に急いだ。



 宿の部屋に戻ると、窓の外を見ていたアリアがこちらを振り向き、お帰り、と言った後首を傾げる。

 「…何か、連れてきたのか?」
 「ああ、この雨の中鳴いてたから、つい…。もしかして、猫嫌いだったりしたか?」

 黒猫を見たアリアの目が一瞬険しくなった気がして、そう問いかけてみると、彼はハッとしたように微笑みを浮かべる。

 「いや…動物は、好き。どうやら、色々必要みたいだから、宿の人に頼んで、もらってくるよ。」

 そう言い残し、部屋を出て行ったアリアが、どうも何かを隠しているような気がした。

 「…貰ってきたよ。そのコの面倒は、僕が見ておくから…あなたは、シャワーでも浴びて、身体を温めて、早く着替えた方がいい。…風邪、ひいてしまうよ…。」

 数枚のタオルと温かいミルクを抱えて戻ってきたアリアはそう言い、ナッシュの手から子猫を受け取ると、風呂場の方へと押しやる。

 「そう言えば、そうだったな…。じゃあ、頼んだ。」

 雨に思い切り降られた事を今の今まで忘れていたが、思い出してみれば身体が冷えている。彼の言葉に甘えて、手早くシャワーを浴び、着替えて出て行くと、アリアの深刻そうな表情に出くわした。

 「…どうした?」
 「……ミルク、飲んでくれないんだ。流し込もうとしても…吐き出してしまって。雨で、身体が冷えて…ひどく弱ってる…。」

 先程までは、弱々しくとも鳴いていたというのに、今は、ぐったりとして、その力すらないように見える。ナッシュと目が合うと、アリアはそっと目を伏せ、小さく首を振った。

 「…ナッシュ…このコ、もう……無理かも知れない…。」

 死の気配を敏感に感じ取るアリアが言うなら、多分…そうなのだろう。しかし、頭でそれを理解してはいても、気持ちはそう簡単にそれを認められない。そっと彼の手から黒猫を引き受け、何とかこの小さい命を長らえさせようとした。

 …そんなナッシュを見ていられずに、アリアはただ、雨に濡れる窓の外を見つめていた。


             * * * * * * *


 それから数時間後、その小さな命は、雨の上がった星空へと還っていった。ただ…眠るように静かに…。

 「…動物も、人も…生き物は、どうしてこんな簡単に…逝ってしまうのだろう…。」

 灯も点さず、月と星の光だけが照らし出す窓辺から、ぽつりと呟く声がする。その声にナッシュがゆらりと俯けていた顔を上げると、こちらからは表情の見えないアリアが再び声を発する。

 「……泣いているの?ナッシュ…。」

 静かに響く声からは、哀しみや痛みは窺い知れない。震える事もない…感情を抑え込んだ声。

 「お前は…哀しくないのか…?」

 問いかけてみると、少しの沈黙があった。

 「わかって、いたから…。」
 「だからって…哀しくない訳じゃ、ないだろう…。」

 その言葉には答えず、アリアはベッドに座るナッシュに近づくと、そっとその頭を抱く。

 「…アリア?」
 「…ごめんね…。僕のせいで…死んでしまったのかも知れない…。」
 「違うだろ。…きっと、俺が拾った時には…もう、手遅れだったんだ。」

 そう、あの時アリアが表情を険しくしたのは、子猫の命が長くはないのを感じ取ったからだろう。そして…ナッシュが哀しむ事を知っていたからなのだろう。

 優しくアリアの腕を撫で、少し彼の腕をゆるめると、彼の泣けない瞳を覗き込む。

 「何でもかんでも、自分のせいだと…全部の死が、その右手にあるモノのせいだと、思い詰めないでくれ。…そんなの、ある意味傲慢だと思わないか?」

 ナッシュの言葉に、その金の瞳が揺れる。

 「……お前のせいじゃない死まで、背負おうとしなくていい。お前は、お前自身が関わった死だけで、手一杯なんだからな。」

 揺らぐ心を映す瞳を逸らし、アリアはまた窓の外へと目を向けた。

 「…そのコは…精一杯生きて…暖かい所で眠りについた…。雨の中、たった独り逝ったんじゃないから…。少しは、救われたのかな…。」

 感情を出さない声で、囁くように言う彼の言葉に、ナッシュは頷く。

 「ああ…そうだな。それにもう、苦しみもない場所へ…向かったんだ…。きっと、救われたと俺は思いたい。」
 「うん…。」

 アリアは、ナッシュが抱えたままだった魂の抜け殻をそっと抱き上げ、労わり、癒すように優しく、その黒く冷たくなった身体を撫でる。

 「…小さき命…どうか、安らかなる眠りへと…。その魂が、二度と苦しむ事なき場所へと、迷う事なく辿り着けるよう…。」

 小さな黒猫の魂の為に、祈るアリアのその腕に触れたまま、ナッシュは更けてゆく夜空を見上げた。空にかかる、優しくも玲瓏なる白金の月を見つめながら、彼もまた祈る。

 夜空へと旅立っていった小さき魂と、身近な全ての死を悼む傍らの少年の心に、どうか安らぎのあらん事を、と…。



― 終 ―


 坊で55のお題・2「黒猫」です。…く、暗っ!自分で言うのもなんですが、何で黒猫ってお題でこんな暗い話になるんだよ、とか、自分に問い詰めたくなります。いや、黒猫が横切ると不吉なんだよ、とかいって、アホな話を書こうかなぁ、なんて思った時もあったんですが、仕上がったのはこんな暗い話でした。…シリアスの方が、書きやすいんだよな…。

 でも、自分でこういう話にしといて、何年か前に、仔猫をもらってきたのに弱すぎて、何日かしか生きていられなかったコの事とか、十何年精一杯生きて、そうして逝った猫の事だとか思い出して、何だか哀しくなってみたり。ってか、こんな暗い話でいいんだろうか…。とか、今更ながらに思ってみたりします。うーん。



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