● 三日月の寝台 ●
1. 綺麗な三日月の晩、家の人達が忙しそうに、皆出払ってしまった。普段は共に留守番をするはずのグレミオさえも出てしまうのは、意外だったけれど。 どうやら、そう遠くないうちに、父の遠征があるらしい。…昔から、そうだったから。 「……はぁ…一体どうしたのかな…」 この辺りの魔物や、山賊を討伐するだけなら、父が出るまでもないだろう。将軍が遠征するような事態が、起ころうとしているのだろうか。そう考えながら、胸に落ちる不安感を消そうとする。 「…どう、して…かな…。最近、この国は、よくない感じがする…」 自分の見えない所で、何かが壊れていくような…何故かずっと、悪い予感が胸を占めているのだ。アリアのこういう予感は、かなりよく当たる。小さい頃に、父の敵の手に落ちた時も、その日は、やけに嫌な感じがしたのを覚えている。 幼い頃に亡くなった母は巫女の血筋だったらしく、そういうような目に見えぬ感覚…第六感とでもいうのだろうか…それがとても強かったようだ。その血を強く継いだアリアもまた、感覚が強いらしい。 「…といって…胸騒ぎがするだけじゃ、何をどうすればいいかなんて、よくわからないのだけど…」 呟いて再び溜息をついた時、部屋の窓に何か小石のような物がこつん、とぶつかって音を立てた。何事かと思い、窓を開けて下を見ると、テッドが笑顔で手を振っていた。 「どうしたんだ?こんな時間に来るなんて」 玄関の扉を開けると、待ってました、とばかりに入ってくるテッドに、思わずそう問いかける。 「いや〜、何か慌しくグレミオさんが来て、大人が皆居なくなるんで、その間坊ちゃんをお願いします、ってさ」 「……グレミオ……いつまで僕を子供扱いするんだよ……」 僕一人では、留守番も任せられないってのか?と、つい肩を落とすと、テッドがまぁまぁ、とその肩を叩く。 「きっと、ただただ心配なんだよ。自分達が居ない間に、何かあったら、とか、お前が淋しい思いをしたら、とかな」 「わかってる。…わかってるけど…それってまるで、僕が頼りなくて、テッドがすごく頼りになるみたいだよね…」 実際そうだとは思うけれど…納得はしたくないような。そう思ってアリアが複雑な表情でいると、彼は困ったように笑う。 「まあ、そういうなって。…いつかは、お前の方が……」 ぼそりと呟いた続く言葉が聞き取れず、え?となると、彼はただ誤魔化すようにアリアの頭を撫でる。 「何でもないさ。それより俺、何かちょっと腹減ったな〜」 「え〜と、たしか昼間、グレミオと作ったクッキーならあると思うけど。ちゃんとした食事じゃなくていいんだろう?それでいいなら、食べる?」 「おお!食べる食べる!!」 いい返事のテッドを見て、思わず苦笑を浮かべてしまう。 「わかった。それじゃあ、ついでにお茶も淹れてくるから。先に僕の部屋へ行ってて。」 ありがとな。と言って彼が階段を上っていくのを見送った後、自分は台所へと向かう。何だかんだ言いつつ、先ほどまで正直淋しかったから、テッドが来てくれたのは嬉しかった。 手際よくお茶の用意をしつつ、昼間グレミオと二人で作ったクッキーを皿に並べる。結構昔から、グレミオにくっついてお菓子や料理を作っていた為、今ではその腕もかなりのものになっていた。 「昔は、寂しさを紛らわせる為だったけど…今はもう、趣味みたいなもんかな…」 父を待つ寂しさを紛らわす為のものが、いつの間にか、大切な家族を喜ばせるものへと変わっていた。…変えてくれたのはきっと、今は部屋で待つ、大切な友の存在。 「……照れくさくて、そんな事なかなか言えないけどね」 苦笑しながら、ポットに紅茶の葉を入れる。これをくれたのも、テッドだった。その紅茶をアリアがとても大切に飲んでいる事を知っているのは、多分グレミオくらいだろう。 「…だいぶ、少なくなっちゃったな…」 呟きながら、沸かした湯をポットに注ぐ。そうしてしばらく待っていると、何か気配を感じた気がした。 「………誰……?」 後ろの廊下の闇を振り返っても、当然誰もいない。…今、この家に居るのは、アリアとテッドだけのはずだから。 「……??」 最近、こういう事が多かった。誰もいないはずなのに、何かを感じて振り返る事が。 「疲れてるのかな……」 前々からそういう事はあったが、特に最近…あの満月の時から、それが多くなった。何というか、闇に見つめられているような…そんな感覚。 「この間の満月から……か」 その時の事は、なかなか上手く思い出せなかった。はっきり思い出せるのは途中までで、その後は曖昧なのだ。 アリアはその曖昧な部分の記憶を辿ろうとするように、その時の記憶の海へと沈んでいった。 * * * * * * 泣きながら、眠っていたテッド。あの日の彼は、どこか…いつもよりも、心が乱れていたように思う。夕陽の色を…夜の闇を、恐れていた。 「……っっ?!」 まるで、何か激しい感情に囚われたように、テッドが強くアリアを抱きしめた。痛い程の力で抱きしめられ、手に力が入らず、カップがこの手から落ちていく。 それにも気付いていない様子の、彼のひどく何かを求めているような瞳に、恐れを感じた。 どうして…そんなに、何を……? 思いがけず密着した身体は、とても熱かった。その熱に、自分の全てが焼き尽くされてしまうような…そんな錯覚におちいるほどに。 「……アリア……」 唇が触れそうなくらい近い耳元で、甘く名を囁かれ、そっと確かめるように背中を撫でられると、何とも言えない感覚に、身体が震えた。 「…っ…。…どう、したんだ…?」 その感覚が恐くて、声が震える。よくわからないけれど、自分の中で、何かが危険だと知らせていた。…自分が壊されてしまうような、テッドが壊れてしまうような…そんな予感。 「…テッド…?何か、今日…変だよ…?」 アリアの声を聞き、狂おしい程に激しかったその瞳が、僅かに正気を取り戻す。彼が、何をそんなに怖れ…何を求めているのかは、アリアにはわからない。 出来るのはただ…昔、母が幼い自分にしてくれたように、優しく抱きしめる事だけだった。 「…怖いの?それとも…淋しいのか…?」 そう問うと、テッドの表情が罪悪感に満ちる。 「………何でも、ない…。悪い……」 彼はそう言い、まるで突き放すように離れようとする。そんなテッドが哀しくなって、思わずその腕を捕まえて、そのままその頭を抱え込むようにする。 「っ!!お、おいっ?!」 慌てたようにテッドは腕の中で暴れていたけれど、あんな表情のままで、色々な事をうやむやにされたくなかった。 「こ、こら…!離せって…っ!!」 彼の声を聞いてないフリをして、離さない。 本当は、テッドの心を、想いを全て…話して欲しいのに。それで何かが壊れてしまっても、それがこの心を傷付けても構わないから。 「……アリア…っ!!」 ……けれど、今の自分に出来る事は、抱きしめる事だけだったから…。 「…落ち着いて。僕の、鼓動の音を聞いて…」 自分の無力感と哀しさを押し隠し、アリアは静かにそう言う。テッドが落ち着けるように…安らげるように。 「……落ち着くでしょう?人の心音と温もりって、安心するよね…」 力の抜けた彼を見つめ、微笑みを浮かべながら、祈るように思う。ほんの少しでもいいから、彼の心が癒されればいい、と。本当に彼が幸せでいられるならば、この身など、焼き尽くされても構わない。 そう思った自分に、少しだけ驚く。心の中で、いつの間にか一番大きな…大切な存在になっていた。それを自覚すると同時に、自分の無力さも大きくなっていた。 「…僕には、怖さがわからないけれど…でも、お願いだから…独りで、苦しまないでよ…」 声を聞いているはずなのに、彼はただ黙っている。その事が、アリアの胸に痛みをもたらす。 …僕には、何も出来ないのだろうか…。テッドはいつも笑って、僕を励ましてくれるのに。 そんな風に考え込んでいると、沈黙の中響く、彼らを呼ばわる声。 「………グレミオさん、呼んでるな。…夕飯かな?」 「……多分……」 じゃあ…行こうぜ…?という友の少し困ったような声に、アリアは深い溜息を返し、抱きしめていた手から力を抜く。 「…テッド、先行ってて…?僕は…片付けてから、行く」 先程手から落ちたカップを拾い、床に身を屈めて、すっかりカーペットに拡がってしまった紅茶の染みを一心に拭う。…そうでもしていなければ、無力さに泣けてしまいそうだった。 やがて、後ろから扉が開き、閉じる音がして、テッドの気配が部屋から遠ざかっていった。そこで気が抜け、息をついた時…ふと、何かの気配を感じた気がした。 「…誰か、居るのか…?」 まさか、そんなはずは無い。そう思いながら背後を振り返っても、あるのはただ、密度の濃い闇ばかり。人影など、全くない。 「………?」 しかし、それでもその感覚は消えず、むしろ強くなるばかり。まるで、この部屋を包む闇が、じっとこちらの様子を見つめているような…。 「…馬鹿な。…そんな訳、無いのに…」 心に、奇妙な不安感が落ちる。月の光だけが頼りの、薄暗いこの部屋に居るからだろうか。そう思い、カップを手に立ち上がろうとした。 …その瞬間、辺りを満たす闇が、ざわりと騒いだ。 「……っ?!なっ……」 驚き、思わず上げた小さな悲鳴をも飲み込んで、闇がその身の内にアリアを捕らえた。…そう思った瞬間、ざわざわと潮騒のように、大きく小さく響く無数の『声』に包まれた。 「…っっ!!」 ずきんっ、と頭が痛くなり、思わず目を閉じると、めまぐるしく変化する声と色彩がアリアの内側を満たす。そのまま、意識が闇の中へと落ちていく…。 |