『とどかぬ手』




偶然 あなたを見かけた
この手を伸ばし 話しかけたかったけれど
心の迷いは それを許しはしなかった…



 「……あれ?」

 旅の途中立ち寄った街の市場で、ナッシュはふと足を止める。賑やかなその場所で、行き交う人々の群れの中に、見覚えのある姿を目に止めた気がしたのだった。確認しようと辺りを見回したその視界の端に、遠ざかる紅の色。

 「あれは…!」

 ふわりと風に揺れた、彼の国独特の服と、黒髪を隠すように巻かれたバンダナは、たしかに見覚えのあるものだった。紅と若草の色に身を包んだ少年は、す…と人ごみの中に消えていく。

 「…!!」

 慌ててそれを見失わないように後を追う。人と人の間に見え隠れするその小柄な姿は、見れば見るほど前に出会ったあの少年に似ていた。
 …あの雪の日に偶然助けた…心に響く言葉で、この自分の心を救ってくれた少年。英雄と呼ばれる彼…アリア・マクドールに。

 「…くっ……」

 月に一度市が立つ日とあって、辺りは人で混雑しており、なかなか追いつく事が出来ない。せいぜい見失わないようにするのがやっとだった。
 …もう一度会って、せめて礼だけでも言いたかった。彼はナッシュに一方的に手紙で礼を残し、去ってしまったから。自分は、彼に対して何も言う事が出来なかったから。

 「…一言くらい、言わせてくれ…」

 そう呟き、ナッシュはその遠い背を見ながら、それでも追い続ける。そうして必死になって後を追うナッシュは知らなかった。既に相手が気付いていて、それでもあえて止まらないでいるという事を…。


              * * * * * *


 「……どうしよう…やっぱり、あの人だったんだ…」

 道具等の補充をしようと、たまたま立ち寄った街の市場で、前に命を助けてくれた恩人を見つけた。あの死にかけた雪の日に出会い、命を助けてくれて、泣けないでいるこの心に気付いてくれた人を。
 一度だけだったけれど、接したその気配…その優しい魂を忘れようもなく、どうしようか迷っているうちに、相手に見つかってしまった。

 「…ダメだ……会っては、いけない…」

 とっさに身を翻し、自分が小柄なのを利用して距離をとった。しかし、このまま立ち止まって話がしたい…そんな気持ちも消せはしなかったから、一気に引き離す事が出来ないでいた。

 …どうして、追ってくるんだ…。こんな力を…心を、記憶を視る事が出来るような者を、追いかけて来ないでくれ…。

 そう心に思いながら、彼は痛みを堪えるような表情を俯かせ、人の群れをすり抜けていく。

 「…それに…彼は、ハルモニアの人なのだから」

 あの人は、真の紋章を集めているといわれる国の者。自分が真の紋章を宿し続けていく以上、もしかしたらいつの日にか…敵となるかも知れないのだ。
 そこまで考えて、アリアは自分の考えに嫌気がさし、唇を噛む。いつから、こんな風に…人を信じられぬ人間になってしまったのだろうか。あの厳しい戦争の最中ですら、ここまでではなかったはずだ。

 …いつから…一体、どこまで、こんな心で…?

 「……僕は、人を信じたいんだ」

 人の喧騒に容易にかき消されてしまうほどの、小さな声で呟き、周りの人々にぶつかりそうになりながら走り出す。命を助けてくれた人さえ、いつからか信じる事が出来なくなっていた…。
 そんな自分が情けなく、辛くて…酷く、嫌だった。

 「追って来ないでくれ……」

 アリアを見失わないように、一生懸命に後を追ってくるナッシュの気配を感じる。礼を言われるような事は、していない…。ただ、彼の心に踏み込んでしまっただけなのに。彼は、それすら許して、こうして追って来てまで礼を言おうとしている。

 「…僕は、あなたが思っているような人間じゃない…」

 市場を抜け、人通りの少ない道をひた走る。そうしながらも、自己嫌悪の渦に心を囚われ、俯いた。


              * * * * * *


 「…あいつ、もしかして、気付いている…のか…?」

 振り返りもせず、周りも見ずに走る背中を追いながら、ナッシュは呟く。この通りには人影も少なく、これだけ後を追われて、足音に気付いてもおかしくはないはずだ。…そもそも、心や気配を読める彼ならば、最初の時点で気が付いても不思議はない。
 それでも、立ち止まる事がないのは、忘れてしまっているのか、または…もう関わるな、という事か…。

 『…まるで、人の姿をした、化け物のようだよね…』

 彼は、自分の能力が疎ましいかのように、自嘲気味にそう言っていた。泣かない事がいい事だとは思わないと言いながら、泣けない、微笑みで全てを隠す…心を見せない少年。だからこそ、今、気付かぬフリで走り去ろうとしているのだろうか。
 どうして、自分がここまで必死に追っているのか、ナッシュにもわからなかった。ただ、放っておけない。無理に孤独でいようとするアリアを、このまま行かせるのが嫌だったのかも知れない。

 「待ってくれ…っ!」

 呼びかけた声に、前を走る少年が、一度だけ振り返る。…とても、哀しげな表情で。どうしてそんな顔をしているのか、わからなかった。その表情のままで、彼が唇を動かす。

 ―― ごめんなさい。

 そう読み取れて、ナッシュは眉を顰める。

 「…えっ…何で謝るんだ?!」

 アリアはもう、振り返らず走る。疲れてきたのか、少し走る速さが落ちてきたその背に、もうちょっとで伸ばした手が届きそうだった。

 もう少し…あと少し…。

 しかし、不意にその姿を見失ってしまった。曲がり角に消えたのだと気付くのに、一瞬かかる。思考に身体がついていかず、更に一瞬かかって、その曲がり角に飛び込んだ。

 「……っ?!」

 …そこに、アリアの姿はなかった。あるのはただ、街の外へと続く道と、ほんの少しの草木だけ。辺りを見回してみても、その姿は既に消えていた。

 「…どうして…。何で、あんな顔で謝ったんだよ…。あんな、中途ハンパな別れ方じゃ、余計に気にかかるだろう…」

 そう呟いて、ナッシュはあと僅かに届く事のなかった、自分の手を一度見つめ、目を伏せる。
 哀しいような、情けないような心を抱えながら、そっと溜息をつくと、彼はもう一度周囲を見回し、外への道を歩き出す。残された胸の痛みを、奥の方へと押しやって。


               * * * * * *


 外に向かって行ったナッシュを静かに見送り、アリアはそっと隠れていた木の影から出て来る。右手に宿る紋章の気配と同調し、影に潜むのは、彼にとってそう難しい事ではなかった。

 「…ごめんなさい…」

 こうして、逃げ回ってしまった事。あの国の者だからといって、助けてくれた心すら、信じられなくなってしまった事。…そんな色々な想いのこもった言葉だった。
 彼に害意が無いのは、もちろんわかっている。けれど…どこからか、情報が伝わってしまうかも知れない。

 「……この紋章を、守らなければならないんだ」

 友との、約束を果たす為に。たとえ、全てを信じられなくなっても…独りが辛いとしても。

 「だから、きっと…会わない方が、いいんだ」

 自分に言い聞かせるように、呟く。そうすれば、疑う事も、万が一にもナッシュの魂が、紋章に喰われる事もない、と。

 「…独りでいい。そうすれば、誰も…喰われない」

 一度、淋しさを振り払うように首を振り、ナッシュが出て行った所とは違う場所から街を出る。



 見上げた空は、彼らのその心を映すかのように、重く暗く…広いはずのその青を、黒い雲に隠されていた…。



のばしたこの手は 届きはしなかった
まるで あの空のように 遠く暗い心
今はただ 全てを拒絶する 深い闇のよう…



 ナッシュ坊第二弾です。悩める英雄と、お人好しな工作員の追いかけっこ、という妙な状況になってしまった話です。っていうか、うちの坊アリア…えらいネガティブな思考にばっかり陥ってます。正直、ウザくないか、書いてる本人が心配になります。

 それにしても、折角シリアスに話を書いても、後書きで台無しにしてるんじゃなかろうか(苦笑)。



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