● Crystal Moon ●
苦しみも哀しみも その胸に 抱き締めたまま 闇夜を見上げる その瞳は 空に浮かぶ 金の月にも似て… まるで 壊れそうに輝く あの月のように 俺達がレナンカンプという街を出てから、五日ほどが経とうとしていた。結局あの街には一泊しただけで、次の日にはもう、この街での用事は済んだ、とばかりに発った訳だが…それにしても、正直なかなかに忙しないな、とも思う。 「…ごめんね、ナッシュ…。疲れてしまっただろう…」 「いや、俺はまあ、大丈夫だが…お前こそ、平気なのか?」 「うん…平気だよ。有難う…」 淡い笑みを浮かべるアリアを見て、俺は内心で溜息をついた。…そんな、いかにも平気じゃないです、って顔でそんな事を言われても、信用できる訳もない。 「……。少し、休むか」 「ナッシュ、僕は…ホントに、大丈…」 「俺が、ちょっと疲れたんだ。悪いが、お前も付き合ってくれ」 「……うん。わかった。」 俺が適当に、座り心地の良さそうな木の下に腰を下ろすと、アリアは少しどうしようか迷う風だったが、結局俺の隣に控え目に座った。ちら、と横目で見てみれば、むしろ俺よりずっと疲れた様子で深い息をついている。 …やはり、無理をしている…。レナンカンプに居た頃から、少し顔色が悪く見えたが…どうもそれが悪化してる上に、心身共に揺らいでしまっているようにも見える。彼は心の影響が身体にも出るタイプで、しかも平気に振舞おうとして倒れるような奴だったから、つい心配になってしまう。 「…お前、本当に大丈夫か…?結構、顔色悪いぞ…?」 って言っても、どうせ辛いなどとは言おうとしないんだろうが…。そっとその額に触れ、僅かに汗で湿った顔にかかる髪を除けてやる。と、ハッとしたように顔を上げ、一瞬身を引きかけ…アリアは戸惑うように視線を泳がせ、ごめんなさい、という表情で俯いた。 「アリア…やっぱり、この国を廻るってのは…やめた方がいいんじゃないか…?自分で、自分の心の傷を抉るようなものだろう」 「……そういう訳に、いかない。僕は…向き合わなければ。だって、そうしなければ…僕はいつまで経っても、前を向く事が出来ないから…」 そう呟くように言ったアリアは、また孤独の中にいるような…必死で、誰にも頼らないようにしようというようで…俺は何だか、無力さを感じる。お前が俺に甘えないようにしているのは、俺がはっきりと答えを示してないからなのか…?つい、そんな事を心の中で問いかけたが、アリアからは何も返事はない。 ずっと答えを待ち続ける…そうはいっても、苛立ったりはするだろう。…彼の今の不安定さの一部には、俺の煮え切らない態度への苛立ちもあるのかも知れない。 「…そろそろ、行こう…。今日中には、出来ればセイカに着きたい。そこで一泊したら…カクへ向かい、そこから湖の城…エリュシオンへ行く」 まるで自分に言い聞かせるようにそう言ったアリアは、少しふらつきながらも立ち上がる。その言葉に驚き、俺はとっさにその腕を掴んだ。 「ちょっと待て!お前…そんなにふらふらしてて、何言ってるんだ!!」 「……ここで、休んでいても…意味がない。この程度で、倒れたりはしない…だから、大丈夫だ…」 俺が掴んだ腕を感情の見えない目で見下ろし、彼は静かすぎる声でそう言う。 「何をそんなに急いで…焦ってるんだ?急ぐような旅じゃ、ない筈だろう?」 「…僕は、別に…焦ってなどいない。いいから、離してくれ」 「焦ってるんじゃなきゃ、苛立ってるのか?…ともかく、座れ。そんな顔色しているくせに、無理するんじゃない」 ぐい、と腕を引っ張って座らせようとすると、その手がパン、と強く振り払われた。 「大丈夫と言ったら、大丈夫だ!…もう、僕に構うな!!」 思わず一瞬固まってしまった俺を見て、すまなそうな…泣きそうな表情を浮かべたものの、アリアは目を逸らし、わざとのような冷たい言葉を吐く。 「……そんなに、休んでいたいなら…あなた一人で、休んでいればいい…。僕は、もう…行くから…。別に一人でも、行ける…。だから、あなたは…好きにすればいい…」 「…お前な…」 強がりだとしてもあまりな言葉に、さすがの俺も怒ろうと口を開いたが、その瞬間に俺の手に地図を押し付けて、アリアはサッと身を翻して逃げるように走り去る。 「ちょ…おい!待てっっ!!!」 情けない事に、とっさにその行動に反応しきれず、立ち上がって呼びかけた時には既に、完全に姿を見失っていた。 「……っ、あの馬鹿…っっ!!」 つい近くの木に拳を打ちつけ、深い溜息をつくと、心を少し落ち着かせる。…手には、この国の地図。頭の中には、さっきアリアが言っていた行く先の手がかり。 「…セイカ…それに、カク、だったか…?」 地図を広げて見ながら、俺はついもう一度溜息をついてしまう。…あいつは、追って来て欲しいのか…それとも、もう離れたいという事なのか…。何を考えて、何を悩んであんな事を言ったのかわからないが…これだけは言える。ここで追わなければ、多分…アリアはもう、本当に俺から離れていく。もし、旅先で会う事があっても、もう共に行く事はないだろう。 「…何でだよ…。どうしていきなり、こんな……」 振り払われた手が、まだ痛いような気がした。とにかく地図を見ながら、アリアを追って歩き出し、俺は心の中でぐるぐると考え続ける。アリアは何故、あんなにも焦って苛立っていたんだろうか。まるで、自分で自分を追い詰めているような…ひどく心が不安定な感じだった。 あの紋章に喰われた、っていう人達に関わりがある場所へ行ったからなのか…それとも、やっぱり俺が悪いんだろうか。思えば、真っ直ぐな告白に対して曖昧な返事しかしてないばかりか、必死に…健気に想いを抑えて、ただ待ってくれている彼にとっては残酷な…やたら思わせ振りな事ばかりしていたような気がする。 「……最低じゃないか…俺…」 あいつの心に甘えて、好意を利用してるようなもんだ。そんな状態が苦しくて、行ってしまったのなら、俺の自業自得だ。苛立って怒っていたとしても、無理もない。そこまで考えて、ふと俺は不安になった。 「もしかして…このまま、本気で…離れていくつもりなのか……?」 もし、そうだとしたら…追わない方がいいんだろうか。そう思いかけて、首を振る。 「俺はまだ…答えを出してない」 そうだ、せめて…あいつの想いに対して答えを出して、ちゃんと伝えなければ。このまま離れる事になったら後味が悪すぎるし、何より…アリアの心に、傷を残すかも知れない。あの心は、真っ直ぐで強いからこそ、時に脆く危うい。ただでさえ、この国を廻る旅は彼の心に負担が大きいのだから…俺がはっきりしなければ、余計に心を惑わせてしまうだろう。 もう一度地図を見て、セイカで追いつくのは諦め、直接カクへと向かう事にする。あいつの精神状態が落ち着いているなら、ちゃんと宿で休んでいるだろうが…どうも、あの状態ではそれはなさそうだ。きっと無理をして、そのまま休まずカクへと向かうだろう。 「…ここから、四〜五日って所か…。地図がある分、迷ったりせず先回り出来るだろうが…あいつが途中で倒れたりしなきゃいいんだがな…」 何とか先回りして、その後無事にアリアが着くのを祈るしかないだろう。俺はそこからカクへと進路を変え、予測通り四日ほどでつく事が出来た。後は、この町で宿をとり、彼が着くのを待つ事しか出来なかった。 * * * * * * * カクへ到着してから、じりじりと二日が過ぎて行き、三日目の夕刻になった。…アリアは、まだ着かない。俺は赤と金を混ぜたようなトラン湖の水面を眺めながら、溜息をつく。こうして待つだけというのも、不安になるものだ…。あいつは、本当に来るのだろうか?本当は…ここへは来ないつもりなんじゃないか?そんな事を考えては、それを心の中で打ち消し、ただ待ち続ける。もしかしたら、アリアもこんな気分だったのかも知れない。 『大丈夫と言ったら、大丈夫だ!…もう、僕に構うな!!』 走り去る前の、俺の腕を振り払い叫んだアリアの声が、耳に蘇る。その泣きそうな…すまなそうな表情と共に。情けない話だ…。頼って欲しいだとか、甘えればいいとか言いながら、俺はあいつを不安にさせるばかりだったって訳だ。結局俺は、アリアの想いから目を背けて、考えないように逃げていただけじゃないか。 「……馬鹿だったのは…俺の方だ」 呟いて、俺はずっと考えないようにしていた事を…俺自身の、あいつに対する想いと向き合う。 『親愛と、恋愛の違いって…何だろうね…?』 あの日…雪降る聖夜、アリアが問いかけた言葉を、今俺も問いたかった。親愛というには拘りすぎで、恋愛というには心が落ち着いているから、よくわからなくなる。こんな事を悩む事も今まであまりなかった。どちらかと言えば、考えるよりも感情が先立つものだったから。 「…俺は、どう思っているんだ…?」 それを考える事の気恥ずかしさもひとまず忘れ、俺は心に問いかけてみる。少なくとも嫌いじゃない、嫌じゃない…そう思う先にあるものを。 無茶ばかりして、いつも哀しげに笑う…孤独でいようとするアリアを放っておけず、共に行動するようになったのが、約半年前の事。『まだ』半年なのか、『もう』半年なのかはわからないが、随分長い事一緒に居るような気分でいた。出会ってからなら、もう一年半の時間が過ぎているからだろうか?あの時、傷付き死にかけていたアリアを助けた時から…彼が俺の心をそっと包み、癒してくれたあの時から…何故か、心の奥にその存在が深く残っていた。あの月の光にも似た、淡い金色の瞳が忘れられなかった。 『苦しみを…隠す必要なんて、ない。辛いなら、泣けばいい…。後悔したって、哀しんだっていいんだよ…。それが、人の自然な感情なのだから…』 そう言って、俺の涙を拭ってくれたあいつ自身が、未だ『人の自然な感情』をあまり出せずにいる。ただ微笑んで、その心を隠すアリアの、その孤独を癒したいと…支えてやりたいと思っていたのは、いつからだったろうか。滅多に見せなかったその心からの笑顔を、取り戻したいと思っていたのに…。 『付き合わせてしまって…すまない』 彼にそう言われる度に、無力さを感じたのは、何故だったろう。アリアが彼の大切な人達の話をすると、複雑な気分になったのは…?こうして離れているだけなのに、どこか淋しさと不安がこみあげてくるのはどうしてだろう。何で、こんなに…あいつが気にかかるんだろう? 「……アリア…俺は…」 俺は随分長い事、考え込んでいたようだった。辺りに人気はなく暗くなり、ゆらゆらと揺れる水面に、金色の月が映っていた。…今日も、着かないのか…そう思って溜息をついた、その時、不意に俺の後ろで何かを落としたような音がした。ハッとして振り向けば、暗い中でもわかる紅の服に、闇夜に溶け込む色のマントを着た待ち人…アリアが、驚いたようにこちらを見て、立ち尽くしていた。彼が思わず落としたらしい棍が、俺の足元まで転がってくるのを拾い上げ、俺は静かに、じっとアリアの目を見据える。 |