■祝祭の前■


1.



 「…困ったな…」

 激しい勢いで流れる川…その岸に、アリアは途方に暮れたように立ち尽くしていた。濁流は、橋だったモノの残骸すら、押し流してしまいそうだ。
 もちろん、彼だけが困っている訳ではない。その橋は、街道の一部だった為、辺りには行商人や旅人が困り果てて、途方に暮れていた。しかし、橋は今や見る影もなく、崩れて水没しかけている。

 「…やっぱり、あの長雨のせいだよね…」

 橋が使えなくなってしまったのは、自然の力によるものだった。ここ一週間ほど、初冬には珍しい位の強い大雨が降り続いて、増水した川の水が、橋をもぎ取って行ったのだろう。
 普段は、多少の雨ならばそのまま旅を続け、一つの町に長く留まろうとしないアリアも、さすがに足止めを余儀なくされてしまった。やっとの事で、天候が回復し、いざ旅立とう、としたら…コレである。

 「この先の村で、お祭りだっていうから、行ってみようかと思っていたのだけど…」

 今は崩れ落ちてしまったこの橋を渡った先に、水神を祀った小さな村があって、十年に一度、そこで祭りがあるのだと、雨の間宿の主人に聞いていたのだった。
 それにしても、水神とはまた皮肉なものだ、と思わず苦笑する。こうなってしまったそもそもの原因は、あの大雨…つまり、水のせいなのだから。

 「さて…どうしようか…」

 ちらりと辺りを見回してみれば、行商人達が別の道へ向かう為に動き出し、それにつられたように、旅人達の多くも同じように動き始めていた。

 「…今年の祭りはどうなるんだろうなぁ…」

 そんな会話をしながら、大部分の人々はここに留まっていても仕方ないと思ったのか、去って行った。残っているのは、自分も含め数人だけ。恐らく、アリアのように別の道を知らない者か、そもそも別の道へ行く気のない者か…または、何か事情のある者なのだろう。

 そんな事を考えていた彼の目が、何気なく一組の親子連れに止まる。どう見ても旅人には見えない、母親と男の子二人の親子。その人達は、ひどく困った様子で何やら話しているようだ。
 と、いきなり、年長の方の男の子が、橋のあった場所…つまり、アリアの目の前まで走ってきて、不意に足を滑らせ、川に落ちそうになった。

 「…っっ!!」

 とっさに手を伸ばし、その子を受け止めた…までは良かったが、うっかり自分がバランスを崩してしまう。

 「くっ…!」

 受け止めたその子供を何とか地面の方へと押し戻したものの、自分自身は川の方に倒れていくのがわかった。妙に冷静になった意識で、増水した川に落ちたらさすがに死ぬかな…などと思っていた。
 世界がゆっくりになる。けれど、なす術もない。半ば諦めたような意識の中で、誰かが自分の名を呼んだ気がした…その次の瞬間、アリアは勢いを増し、濁った水の中に居た。

 ごぼっ、と息が零れた。何とか泳がなければ…けれど、上手く泳げない。水が、口から、鼻から入ってくる。身体が沈む…。息が、できない…苦しい、苦しくて、力が入らない…。苦し…。誰 か…。

 薄れかける意識の中で、必死に何かに助けを求めた時、不意に左手首に巻きついていたらしい『何か』に強く引っ張られる。そうして、誰かの手で陸に引き上げられ、そのままその場で激しく咳き込んだ。周りを気にする余裕など、殆どなかったが、近くで心配げに…泣きそうな顔で何かを言っている先程の母子にだけは、何とか笑みを向けた。

 「…大丈夫…だから…」

 多分謝ってるのだと思うが、耳鳴りがひどくて、その人達が何を言っているのかはわからなかった。助かった安堵感からだろうか、身体から力が抜け、意識が落ちかける。

 「……僕は…大丈夫…」

 うわ言のようにそれだけ繰り返し、朦朧とした意識の中で見るともなしに周りを見る。ふと、目に入った金色に目を止め見上げると、緑青の瞳が心配げに見返してくる。その色を持った人を、知っている…。でも、誰だったろうか?自分を支えてくれている、この人は…。

 「あなたは……」

 その人が何かを言っていた。それでも、声は聞こえない。もどかしくて、陽だまりのような金の髪に手を伸ばしかけた途端、霞んでいく意識。闇に落ちていきながら、その人が誰だったのか記憶を辿りかけ…そのまま気を失った。


              * * * * * * *


 「……?」

 気が付けば、何故かどこかのベッドの上に寝かされていた。どうしてこんな所にいるんだろう…そう思いかけて、自分が溺れて死にかけた事実を思い出す。

 「ここは…あの近くの町の宿…?」

 誰かが、倒れた自分をこの場所まで運んでくれた、という事だろうか。そう思いながら起き上がりかけ、自分の身体を見る。

 「……服、どこだろう…」

 ずぶ濡れだったから、身体が冷えないように誰かが服を脱がせてくれたのだろう。ここまで運んでくれた上に手間をかけさせてしまった、とは思うのだけれど…このままでは、外にも出られず、事情もよくわからない。

 「困った…」

 そう呟いた時、扉が開く音と共に、川辺で見たあの親子連れが入ってくる。この人達が、ここまで連れてきてくれたのだろうか。

 「…あの…」

 声をかけようとした途端、アリアが目覚めている事に気付いたその人達は一気に駆け寄ってくる。

 「ああ、意識が戻ったのねっっ!良かった…。ごめんなさい!うちの子を助けようとして、あんな事になるなんて…っ」
 「ごめんなさい…川、渡れないって言うから、どんな風になっているのかと思って」
 「お兄ちゃん、平気?あれからずっと、起きなかったんだよ」

 三人に同時に話しかけられ、少々混乱しつつもとりあえず頷く。

 「え、ええ。もう大丈夫です。とにかく、お子さんに大事なかったようで、安心しました。それで…あの、僕はどうしてここに…?」
 「本当に、すいませんでした…。あの後あなたの身体がひどく冷えてしまって、このままでは危険だと、ひとまずこの町に。あなたの知り合いだという方が、医者を探して呼んできてくださって…」
 「僕の…知り合い?」

 そんな人が、居ただろうか。この旅先で、自分の知り合いだという人が。

 「ええと…たしか、ナッシュという方だったわ。あの時、あの場に偶然居合わせて、とっさにロープのようなものをあなたの手首に絡めて、引っ張り上げてくれたのよ。…覚えてないかしら…」

 …そういえば、気絶する前、知っている人を見た気がした。今思えば、確かにあの人だったような。

 「…だとしたら…僕は二度も、助けられたんだ…」
 「え?」

 怪訝そうな表情をする母子に、何でもないと首を振り、問いかける。

 「あの川の向こうへ、行けそうですか?」
 「それが…私達も困っているのよ…。私達はあの村に住んでいるのだけど、帰れなくなってしまって。川にすぐに橋はかからないし…。水神様のお祭りはもうすぐなのに…」

 それで川を見ながら、ひどく困った表情をしていたのか、と納得する。

 「他に、道はないのですか?僕、そのお祭りというのを見てみようと思って、来たのだけど…」
 「山越えの道が、あるにはあるの。だけど、山賊や魔物が多く出る道でね。商隊や強い旅の人ならまだしも、私のような子供連れや、一人の旅人さんには危険な道なのよ」

 つまり、道がない訳ではないらしい。何か食べる物をもらってくる、と言って母子が部屋から出て行き、さてどうしたものか…と考えていると、扉が音を立てる。見れば、アリアを二度までも助けてくれた青年…ナッシュが、見覚えのある服を手にして部屋に入ってきた所だった。

 「……ナッシュ、さん…」
 「良かった、目が覚めたみたいだな」

 彼は微笑んで傍まで来ると、持っていた服をベッドの上に置く。それを見てから、一体どこから質問していこうか…と思っていると、ナッシュが先に口を開く。

 「…多分、気になってると思うから言っとくが、持っていた荷物は俺が預かってる。服は、あれ以上体温が下がるとマズイと思って、ここに運んだ時に俺が脱がせたんだ。ここの女将さんが洗濯してくれて、この通り、すっかりいい感じに乾いてる」
 「そうか…本当に、どうも有り難う。にしても…僕は、一体どれ位眠っていたんだ…?」
 「そうだな、ほぼ二日は目を覚まさなかった。…一時は、どうなる事かと思ったよ」

 安心したように笑う彼に淡い笑みを返し、アリアは持ってきてくれた服を身につけ、息をつく。やっと落ち着いた所でナッシュをじっと真っ直ぐに見上げた。

 「…助けてくれて、有難う。でも…どうしてあなたが、あの場所に居たんだ?」

 僅かに警戒の色を声と瞳に滲ませるアリアに、彼はただ困ったような表情を返す。

 「いや、本当に偶然なんだ。…お前が警戒しちまう理由は、なんとなくわかる。けど、そうとしか言えないんだよな。…わかるだろう?その目で、俺を視れば」

 その言葉にアリアは、自分が彼を疑って警戒していた事を自覚し、目を伏せる。…別に、ナッシュが追ってきていた訳ではないと、わかっているのに。

 「…すまない。二度も命を救っていただいた、恩人だというのに。…失礼な事を」

 生真面目な表情でぺこりと頭を下げたアリアに、ナッシュは微苦笑を浮かべた。

 「恩を着せる為に助けたんじゃないから、気にする必要はないさ。それに、俺みたいなヤツを、一度や二度会ったからって、信用しにくいだろうしな。実際、そういう職業だし、その方が賢明だ」

 わざと軽い口調でそう言った後、ふと目に入ったアリアの左腕を見て、痛いような顔になる。

 「何とか助けられたのはいいが、そのせいでその左腕は、随分とひどい事になってしまって…ごめんな」





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