2. …あの時、手首に巻きついた『何か』の正体は、彼の装備しているワイヤー付きのアンカーだった。とっさにそれを使ってアリアを引き上げたのだが、強い力がかかったせいで、その手首には痛々しい痣がくっきりと付いて…その上、アンカーのかぎ爪が、アリアの腕に刺さってしまったのだった。 今、その手首と腕は治療され、しっかり包帯が巻いてあるが、ナッシュの視線はそこから動かない。 「この程度なら、大した事ないから…。あのまま急流に飲まれていたら、きっと…死んでいた。改めて、礼を言います…助けてくれて、有難う」 彼の視線から逃れるように左腕を隠し、アリアは穏やかに微笑んだ。 「それにしても、あの場所に居たって事は、もしかしてあなたもお祭りに…?」 「ああ。折角近くまで来たんだし、そういうのがあるなら、見てみようかとも思ってたんだが…橋が落ちてしまったからな」 少し残念そうな様子のナッシュを見つめ、静かに一言呟く。 「…道はあるらしい…」 え?と見つめ返され、アリアは少し困った表情になる。 「僕は、道を知らない…けれど、あの母子は知っているようだ。できればその道を使って、あの人達を送り届けたいんだが…やはり、この外見では、危険そうな道は、教えてもらえないようだ」 一度溜息をつき、真っ直ぐナッシュを見上げた後、頭を下げる。 「お…おい…?!」 「頼む…一生のお願いだ…。迷惑をかけてしまった後で、こんな事を言うのは、気が引けるけれど…その道を聞いて、あの人達に、僕と共に山を越えるよう、説得してもらえないだろうか…」 どうしてそこまで…そうナッシュが思うと、彼はその心を感じて、ただ微笑む。 「…あの人達には、帰るべき場所がある…。あの人達を待つ暖かな腕に、早く帰したいんだ…」 その言葉を聞き、ナッシュが驚いたように目を瞠る。その言葉には…恐らく無意識にだろうが…孤独感が漂っていた。 「……お前…」 「あの子達は…帰れるんだ。ちゃんと、父上の待つ家へ…。だから、お願いだ、ナッシュさん…」 どこか、泣きそうにも聞こえるアリアの声を聞き、彼は頷く。 「…わかった。が、条件が二つある。一つは、その山越えの道行きに、俺も一緒に同行させてもらう事」 驚き、何も言えずただナッシュを見るアリアに優しい笑みを向け、ポン、と軽く頭を撫でる。 「もう一つは、さん付けをやめる事。そうじゃないと、何か、いつまでも堅っ苦しくなりそうだからな。ま、折角十年に一度の祭り前に、近くまで来たんだ。俺だって見てみたいんだよ。嫌とは、言わないよな?」 気を遣いすぎるアリアの性格を読んで、あまり気にしないですむように、そう言ってくれる彼の心遣いに、アリアは目を伏せる。 「………有難う、ナッシュ…」 その優しさに泣きそうになるのを堪え、囁くような声でそう言った。 * * * * * * * 次の朝、彼らは結局山越えを了解した母子三人を伴い、宿を発った。見るからに起伏の激しそうなその峠の入り口で、アリアは先を見つめ、僅かに眉を寄せる。…確かに、女子供の足では、越えるのは困難だろう。今日中には抜けたい所だったが、これでは難しいかも知れない。 「…もしも、魔物や山賊が現れたら、慌てて逃げたりせず、後方でじっとしていて下さい。僕達が、何とかしますから…」 頷く母子を見た後、腰に帯びた剣に触れ、村があると思われる方角を見る。 「……では、行こう」 先に立ち、歩き始めたアリアに並び、ナッシュが声を抑え、囁くように問いかけてきた。 「左手は、大丈夫なのか?それに…」 剣は扱えるのか?と心に思う彼に、ただ笑みを返す。 「この手では、棍を扱うのが難しいからね…。大丈夫、こう見えても、将軍の息子だ…大体の武器は、扱えるようしっかり仕込まれてる」 「なるほど…けど、あまり無茶するなよ。お前、一応死にかけてたんだからな」 そんな会話を小声でしながらも歩き続ける。出てくる魔物を蹴散らし、傾斜のある山道を母子のサポートをしつつ、少しずつ道のりをかせぐ。そうして大半歩いてきた所で、完全に日が落ちた。辺りは闇に覆われ、灯で照らしても先を見通すのは難しかった。 「…これ以上は、ムリだね」 「ああ。下手すりゃ、谷に落ちる危険もあるしな。それに…旅慣れてない者には、もう限界だろう…」 へたりこんでしまっている母子を見て頷く。 「今日は、ここで休もう」 そう決めると、二人は野宿の準備をする。ナッシュは辺りに落ちていた小枝を拾い集め、火を熾す。その間にアリアが母子に水を渡し、何やら飯の用意を始める。意外というか、何というか、かなり料理に長けた様子の彼は、あっという間に干し肉と薬草を使ったスープを作り、軽く焼いたパンを皆に配る。 それらを食べて腹が満たされると、余程疲れていたのか、親子三人は少し離れた木の下に身を縮めるようにして眠ってしまった。 「……あなたも、寝ておくといい。寝ずの番は、僕がするから…。大丈夫、僕は二日も眠っていたんだし」 それは溺れて死にかけてたんだろう、と心の中でツッコミつつ、ナッシュは首を振る。 「いや、いい。とりあえずは、もう少し付き合うさ」 その言葉に不思議そうに首を傾げたものの、特に何も言わず、アリアは焚き火に小枝を投げ入れる。しばらくの間、小枝の爆ぜる音だけが響く。 「…空が、キレイだね…。星が、宝石みたいだ…」 ふと空を見上げ、呟いたアリアの目線を追うように、ナッシュも空に目を向ける。何日も降り続いた雨の名残りは欠片もなく、まるで宝石のように星々が煌いていた。 「…一緒に来てくれて、有難う。正直、助かった。この紋章の力、あまり使いたくはなかったし…」 「……。俺はただ、祭りを見てみたかっただけだよ」 柔らかい笑みを浮かべてそう言うナッシュを見ながら、アリアは笑みを返しつつ、彼を疑ってしまった事に、ひどく罪悪感を抱いて、つい、口から謝罪の言葉が零れ出る。 「………ごめんなさい…」 少しの沈黙の後に、いきなり謝られては、ナッシュには驚いて、戸惑う事しか出来ない。 「ど…どうしたんだ?急に…」 「僕は…あなたを、心のどこかで疑って…信じる事が出来なかった。あなたは、ただ僕を案じてくれているだけで…心、視えるから、僕にはそれがわかっているのに…」 アリアは俯き、感情が溢れ出したような声で言葉を紡ぐ。 「…この紋章、守らないといけない…。でも、だからといって、全てを疑って生きるのなんて、嫌なのに…。あなたが、あの国の人だからといって、信じる事が出来ないなんて…」 「…今も俺を、信用出来ないか?」 静かにそう問うナッシュの声に、アリアは首を振る。 「今は、少しは信じてくれてるんだろう?なら…気に病む必要ないさ」 「けど…っ!」 「俺は、ハルモニアの人間だし、もうそんな気はないが、事実、真の紋章の事を調べ回っていたんだ。それを持つお前が警戒して、信用出来ないのは、当然だろう…」 俯いて沈黙したままのアリアを見て、ナッシュは困ったような表情になる。 「…あの時も、そう思っていたのか?だから…あんな表情で、謝っていたのか…?」 あの時、とは、街で偶然出会い、結局アリアが、彼の前から逃げた時の事だろう。 「俺は、あの時も、その前も…お前に礼を言いたかったんだよ」 「……僕は、礼を言われるような事、していないよ…」 「俺にとっては、そうしたい事だったんだ。確かに、お前は俺の心を視たかも知れない。けれど、そうしてこの心を理解する事で…この弱さをわかってくれた事で、俺に光をくれたんだよ」 その言葉に、ようやく顔を上げたアリアに、彼は優しい笑みを見せる。 「だから、ありがとうな」 ナッシュの笑みを見て、一瞬だけ泣きそうに顔を歪めるが、すぐにそれを覆い隠すように目を伏せる。 「…僕は、本当に…そう言われるような人間じゃ、ない…」 「いいじゃないか。勝手にそうしているんだ…あまり悩まずに、そうさせといてくれ」 そういう訳にいかないだろう、という目でナッシュを見ると、彼は困ったような笑みを浮かべ、アリアの肩に手を置く。 「…さ、そろそろ、眠った方がいい。自分の顔色をわかってないと思うが、火に照らされてるってのに、紙みたいに白いぞ」 …そう言えば、ひどく身体が辛い。やはり、まだ本調子じゃなかったのに、山越えは無理があったのか…。そうは思っても、アリアは眠る事が出来なかった。 「どうした?寝ずの番なら、俺が…」 「……ダメなんだ…」 呟かれた言葉が聞き取れず、ナッシュは、え?と訊き返す。 「…苦手、なんだ。この暗闇が…。皆を…全てを、飲み込んで…消してしまいそうで。月の無い…星だけの夜は、ダメなんだよ……」 「眠れないのか…?」 ナッシュの静かな声に、首を振った。眠る事は出来る。けれど… 「…夢を、見るんだ…。こういう夜は…嫌な夢を」 呟いて、アリアは膝を抱えるようにして、揺れる炎をじっと見つめる。…こんな事を話しても、仕方の無い事なのに…そうは思っても、溢れ出した言葉は止まらなかった。 「深いふかい闇の中、独りでいるんだ…。やがて、僕の大切な人達が、笑顔のままで…その闇に飲まれて、消えていく…。僕だけを遺して、皆…」 ナッシュの顔が見られない。つい、傍に居る彼を頼って、弱音を吐いて、その優しさに寄りかかろうとしている自分が、ひどく情けなかった。 |