・ 零雨 ・
1. 『さよなら、ナッシュ。…有難う…』 そんな声を聞いた気がして、ナッシュはふと目を覚ました。 「……アリア…?」 名を呼んで、見える範囲で部屋を見回しても、誰の姿もない。部屋は暗く、窓は閉まっていたが、カーテンが開いており、そこから射す淡い夜の光だけが、室内を薄く照らし出していた。 …あの少年は、手を握り、哀しげに微笑んでいた気がする。それが、どれ位前の時間の事だったろうか。 『もしも…僕が、あなたともう一度出会えたなら…今度こそ、共に旅をするのもいいかも知れない…』 眠りにつく前…意識が落ちる寸前、ナッシュが問いかけた言葉に、アリアはそう答えていたようだった。 「…あいつ…っ!」 起き上がり、身支度を整えてから、もう一方のベッドを調べてみる。そこは使われた形跡もなく、冷えていて…そこに置かれていた筈のアリアの荷物は消えていた。 「……どうして、黙って消えちまうんだよ…」 そんなに一緒に居るのが嫌だったのだろうか、そう思いかけて、首を振る。山越えをした日の夜…彼は、自分が人と関わってはいけないと…人の傍に居ない方がいいんだと、そう言っていた。 「あんなに、孤独が怖いクセに…」 部屋に朝の光が射しこんできた。…多分、今からでは、追いつけないだろう。そう思い、溜息をついた時、ふとアリアの使う筈だったベッドの上に、何か光るモノを見つけた。 「…?何だ、これ…イヤリング…?どうしてこんな所に…」 そう言えば、あの少年の片耳には、いつもこんなイヤリングが光っていた。朝日に輝くそれを拾い上げ、すかし見ると、その光る宝石の中に、うっすら何かが見えた。 「これは…一体…?」 よくわからないが、恐らく、このイヤリングはアリアの大切な物だろう。そうでなければ、常に身に付けたりはしない筈だ。 「となると…何としても、もう一度会わないとな」 そんな大切な物を忘れる程に急いで旅立っていったアリアを追う為、ナッシュもまた朝のうちに村を出た。念の為、アリアが戻って来たら困るので、一言宿の者に伝言を残して。 …まさか、本当にアリアが忘れ物を取りに戻ってくるとは、多分ナッシュは思わずに。 「……参ったな…」 忘れ物に気付き、慌てて宿に戻った時には、既にナッシュは旅立ってしまった後だった。宿の者に残していった伝言は、忘れ物は自分が預かっている、という事だけで、行く先に関する手掛かりは残して行かなかったようだ。 自分の迂闊さに溜息をつき、アリアは頭を抱えた。 「…アレを、忘れていくなんて…」 あのイヤリングは、ただの装飾品じゃない。かつて、自分がまだ外見と同じ年だった頃…出会った初期解放軍リーダー、オデッサ・シルバーバーグが身に付け、死の間際、軍の行く末と共に、アリアに託した…解放軍リーダーの証のようなもの。 「気が、抜けていたんだろうか…」 今ではその意味を知る者はそう居ないだろうが、自分を戒め、あの戦いを忘れないように、どんな事があっても、身に付けてきたというのに。思わず深い溜息をついた後、精神を集中してまだ真新しいナッシュの気配を探る。彼の魂の気配は、忘れようにも忘れられなかったから、容易に追う事が出来そうだった。 「後は、大人の足に、追いつけるかどうか…だな…」 いかに心は20代の男でも、身体はこれ以上成長しない子供の姿だ。歩ける距離や長さは相手に劣っているだろう。 「………。頼むから、馬なんて使わないでくれ…」 呟いて、アリアはナッシュを追い、彼の歩んだ道を歩き出した。…こんな事になるなら、一緒に行っておけば良かったかな…と、少しだけ後悔をしながら。 * * * * * * * * そんな風に追い始めたのはいいが、一週間が経っても、二週間が過ぎても、全く追いつける気配がなかった。立ち寄る町や村で情報を集めると、確かにそこを通っている筈なのに。 …そうこうしてるうちに、もう一ヶ月が経とうとしていた。このままでは埒があかないと、途中で馬を買い、それを走らせ、ようやく小さな村で追いつけたかに見えた。しかし… 「……魔物の、巣…?」 「ああ。近くの森に、魔物が山ほど住んでる場所があってな。そこを魔物の巣って呼んでるんだ。いっつも霧が深くて、魔物にゃいい環境なんだろうが…。あんたの言う特徴の兄ちゃんは、どうやらそっちの方へ向かって行っちまったらしくてなぁ…」 人の良さそうな村人の、その心に浮かんだ記憶を視て、思わずアリアは息を飲む。 霧の森へと向かう、陽だまり色の髪をした青年…。彼が持っていた筈の、ズタズタにされた荷物。地面に残された、血の痕…。 「あれ、黒髪に、金の目の少年…もしかしてあんた、あの兄ちゃんが聞き回ってた子じゃないかい?…その、気の毒だが、多分…」 いつの間にか周りに、大勢の…恐らく、この村中の人達が集まって、一様に気の毒そうな表情で見ていた。そんなにも、行方を聞き回ってくれていたのか、と胸が痛むのと同時に、確信めいた思いがよぎる。 「…彼は、死んでいない…」 思わず、そう呟いた。ソウルイーターが反応していない。彼がもし…死んだのなら、自分にはきっとわかる筈だ。 だって、彼がどう思っていたかはわからないが、僕にとっては…。 「…すまないのだけれど、この馬…休ませてあげて下さい」 一番近くにいた村人に手綱を渡し、意を決したように、ナッシュの消えた森へと歩き出す。 「お、おい、あんた…」 「あの人を…助けに行きます。ついでに、魔物も一掃します」 そう言うが早いか、地を蹴り走り出した。後ろから慌てて止めようとする村人達の声が追ってきたが、気にしてなんかいられなかった。 …今はまだ、彼は生きている。でも…いつまで大丈夫なのか、わからなかったから。 「…お願いだから、死なないで…!」 もう、誰かを目の前で亡くすのは、嫌だった。 しとしとと、空から涙のような雨が降りだした。見上げれば、人の心を重くする灰色の雲が、空一面に圧しかかるように広がっている。 「…参ったな…」 そんな空を見上げ、溜息をついたのはナッシュだった。村人達は、もう既に彼が魔物にやられてしまったと思っていたが、彼は何とか生きていた。…食料もなく、背中にひどい傷を負ってしまってはいたが。 森をどの位歩いた頃だったろうか。いきなり魔物に背後から襲われ、とっさに荷物を捨てて逃げたまでは良かったが、後を追ってきた一匹に背中を切り裂かれてしまったのだ。それでも、何匹かを斬り捨て、彷徨い歩くうちに、今身を隠している洞穴に辿り着いたのだった。 「全く…何てザマだ…」 持っていた水の札を使い、取りあえず傷は塞がってはいるが、動くのはマズイ。しかし手元に食料もなく、少し離れた天井の穴からは、風雨が入り込んでくる。…なかなか、嫌な状況だった。 「……こんな陰気な場所で死ぬのは、ご免なんだがな…」 呟いて、ふと懐に手を入れ、小さな輝きを取り出す。その手に握られているのは、あのイヤリングだった。それを見つめ、ナッシュはふ…と笑みを浮かべる。 「少なくともこれを返すまでは…死ぬ訳にはいかないな…」 闇の中で光るそれは、何故だか生きようとする気力を保たせ、強さをくれるような気がした。 「…こんな所じゃ、終われない」 そう自分に言い聞かせ、彼は目を閉じた。少しでも、体力を回復させる為に…。 |