2. 泣くような雨の中、霧深い森をアリアは走り続けていた。現れる魔物を打ち砕き、吹き飛ばし、囲まれれば札と紋章を使い一掃して。まるで、防御の事など全く考えていないかのように、かなり無謀な戦い方をしているその身は、既に魔物と自分の血で真っ赤に染まっていた。 「……邪魔をするな…っ」 鋭い声と共に、ぐしゃりと何かが潰れ、棍が振られる度、何匹かの魔物が吹っ飛ばされる。 「消えろ…っっ!!」 右手が掲げられると、そこから拡がった闇が辺りに居た全ての魔物の命を喰らい尽くす。…鬼気迫るその姿を見る者がもしあったなら、彼の方こそが、人の形をした魔物だと思ったかも知れない。 「……っぐぅ…」 濃すぎる血の臭いと辺りに倒れた魔物の凄惨な姿に、一瞬口元を押さえたが、その手も、既に血塗れになっている事に気付き、手を下ろしぎゅっと握る。 「…どこに…行ったんだ…あの人は……」 呼吸を整え、意識を集中する。と、ナッシュが行った道が光る軌跡となって、その目に映る。 「あっちか……」 もうあまり大きな魔法は使えないな…。そう思いつつ、アリアは彼の気配を追った。 アリアの放つ血の臭いと、色濃い闇の…死の気配に恐れをなしたか、その後は殆ど魔物に出会う事もなく、やがて一つの洞穴の入り口まで辿り着いた。 「ここに、居るのか…?彼は…」 そう呟き、薄暗いその中へと足を踏み入れる。目が慣れれば、灯がなくとも辺りを見渡せる程度の暗さだったが、やたらと湿っぽく、足元にはそういう場所を好む苔が生えており、気を抜けばすぐに足をとられてしまいそうだった。 …本当に、こんな場所に居るのだろうか?そう思った時、彼の鋭敏な感覚が、何かの意識を感じ取った。 「……?」 ナッシュだろうか?しかし、疲労の為か、折角感じたその意識を、上手く捉える事が出来ない。呼びかけてみようか…そう考えた次の瞬間、それが殺気に変わった。ハッとしてとっさに構えようとしたが、重心をかけた足が不意に滑った。 「…っっ!!」 その瞬間を狙って、殺気が向かってくる。暗闇で感覚がずれ、受け身もとれずに転んでしまったが、その瞳は殺意の主を正確に見据えた。 「待てっ、僕は敵じゃないっっ!!」 そう叫び、迫る刃に思わず目を閉じた。と、肩の辺りで、剣が止まった。 「…ナッシュ、僕は、あなたを捜しに来たんだ」 「……アリア、か…?」 目を開くと、ナッシュが荒い息をつきながら、信じられないような表情でこちらを見ていた。 「数え切れない程、魔物を倒しながら来たから、僕が魔物に見えても仕方ないかも知れないが。ひどい血の臭いだしね」 アリアがそういうと、ナッシュの手から剣が落ち、その身体から力が抜けたようにその場に膝をついてしまう。 「…!!ナッシュ?!」 慌てて駆け寄り、彼を支えると、ナッシュの背中の傷が目に入った。 「なっ…!何だこれ!かなりひどい傷じゃないか!!…放っておいたのか?!」 「……処置を、しようにも…手元に、殆ど、何もなくてな…。水の札を、使ってみたが…集中できず、せいぜい、血が止まった程度だった…」 「…わかった。とにかく、ここではよく見えないから…」 そう言って、ナッシュを支えながら、その場所よりは明るい場所へ誘導する。天井に開いた穴から小雨が吹き込み、明るさもまだマシ、という程度だったが、この状況では、文句も言ってられない。 「傷がよく見えない。上着を脱いで」 静かに、それでいてきっぱりと命令するアリアには、どこか逆らえない空気があり、手伝ってもらいつつ何とか上着を脱ぐ。 「……すっぱりやられたね…。よく、ここまで頑張ったものだ…」 「…そんなに、ひどいのか?」 じっと背中の傷の状態を見ていた彼は、深い溜息をつき、ナッシュに言葉を返す。 「まあ、ひどいものだ。見えていたら、もっと前に、気力を失っていたかも。今は痛みも麻痺しているようだけど、治療を始めたら、もしかしたら痛くなるかもね」 やや怖い事をさらりと言ってのけた後、アリアは左手を背中にそっとかざす。 「…安心して。僕に治せない程の傷じゃない」 微笑んで、力強くそう言い、彼は左手に宿す紋章に精神を集中させる。 「流水の紋章よ…天地の狭間に在りし、優しき水の力よ…生命育みし母なる海の安寧を、今ここに…この傷付きし者を癒し給え…」 一度聞いた詠唱よりも長い呪文と共に、左手の紋章が強く…優しい光を放つ。と、まるで水の中に居るような蒼い光がナッシュを包み、その周りをいくつもの水の波紋が浮かんでは消える。 「……っっ!」 一瞬、背中の傷がズキッ、と痛んだが、それを消すように、より強い光が傷に集中する。やがて、静かに光は引いていき…気が付けば、すっかり身体が楽になっていた。 「…取りあえず、塞がったよ。傷痕は、残っているけど。後は、薬塗って、栄養のある物でも食べれば、大丈夫…」 アリアはそう言いながら、まず荷物から水を取り出し、血と雨に濡れた手袋を外して手を清め、続いていくつかの薬と布、包帯を取り出して、薬の中でも即効性のある物を清潔な布に塗り、ナッシュの背中に残った傷にそっと当てると、しっかり包帯で固定する。 「そう言えば、お前は大丈夫なのか?」 手慣れた様子で手当てをしてくれている彼に向けて、ナッシュはふと疑問をぶつけてみる。ここまで魔物と戦い続けて来たというのなら、当然、傷があるのでは、と思ったのだ。 「ん?…ああ、大丈夫…」 さっと目を逸らし、立ち上がってどこかへ行こうとするアリアの腕を、ナッシュはとっさに掴んだ。と… 「っっ!痛っ…!!」 軽く腕を引いただけだというのに、小さく悲鳴を上げ、彼はその場に固まってしまった。よくよくその腕を見てみれば、小さいけれど無数の傷が、びっしりとその肌を埋め尽くしていた。 「なっ、何だよ、これっっ!!お前、全然大丈夫じゃないじゃないか!!」 「…浅い傷だから…。大した事、ない……」 そんな事言いつつ、涙目でしゃがみこんでるのは、どこの誰だよ。と心の中でツッコミつつ、ナッシュは大きな溜息をつく。 「アリア。全身、もしかしてそんな状態か?」 「……平気」 目線を合わせず、彼は強情にそう言い続ける。…何だか、そんなアリアにひどく腹が立ってきた。 …何で、そんな我慢をする必要がある?それを隠さなければならない程、信頼していないのか?…それとも、信じているからこそ、強がらなければならないのか…。一体、いつまで彼は、戦争に…『英雄』の名に、縛られなければいけないのか。 そこまで考えて、ナッシュは深い溜息をついた後…横を向いたままの、あいての頬を軽く叩いた。 「……っっ?!」 「この、バカッ!そんな風に、強がんなくて、いいんだよ!痛けりゃ、痛いって素直に言え!俺を助ける為にそんなんなったクセに、それで我慢してもらったって、俺はちっとも嬉しくないんだよ!!」 その言葉に、驚いたようにその金の瞳がナッシュを見つめる。 「…俺はっ、お前を有難がって英雄視してる奴らでも、お前の部下だった奴でもない!過去なんてよく知らない…今のアリアしか知らないから、ただ俺にとってお前は、強がって、必死になって心を隠してる、帰るべき場所に帰れない子供にしか見えないんだ!!」 感じた怒りのままに、叱りつけるように、思わず叫んでいた。こんな事を言う資格が自分にあるのかはわからない。それでも、きっと…英雄と呼ばれた彼の顔を知らないからこそ、言える事もある。…そう、思った。 「……お前は、俺の心に光をくれた…。それは、お前が英雄だからじゃないだろう?痛みを知っているから…救ってくれようとしたんだろう?自分が、泣く事は出来ないから…」 アリアはただ、沈黙を返す。俯いた顔からは、その表情は読み取れない。 「…もう、いいだろう?…もう…強がったり、するなよ…」 ナッシュの言葉に、アリアが強く首を振る。 「……ダメだ…。そんな風に、優しい心で…叱らないで…。僕を、許さないで…」 吐き出すように呟かれた声は、強くも武人口調でもなかった。あるのはただ…戸惑いと、弱さ。そして…幼さだった。 「心が、揺らいでしまう…。甘えて、縋って…そうしたら、僕は…僕でなくなってしまう」 「違うだろう?お前が演じていた『完璧な英雄』としての仮面が外れるだけだ。本来のお前は…感情も、弱さもある…普通の人間だ」 言い聞かせるようにそう言葉を発しても、アリアはただ、必死に心を隠そうとするように、ぎゅっと身を縮め、首を振るだけ。 「…っ、僕は、こんな風にしか、生きてこなかった…!そうするしか、なかった。泣いたり、弱さを見せれば、軍の士気に関わるから…。それに、この紋章は…僕の、近しい者の命を、奪うから…。誰かの傍に居たら…縋ったら、きっとその人も…っ!」 身を縮めたその姿は、ひどく痛々しかった。 「僕は、大丈夫だから…もう、これ以上…優しくしないで。そうじゃないと…あなたの魂まで、いつか…喰らってしまうから…」 そう言ったアリアの身体を黙って引き寄せ、ナッシュはその両腕で包み込んだ。すっぽりとその中に収まってしまう程、その身は哀しくなる位小柄で、子供の域を抜け切っていなかった。 「…な、ナッシュ…?!」 「泣きそうな顔で、耐えなくていい。…見ないでおくから、泣いちまえよ。何も考えずに…。甘えたって、縋ったって、いいじゃないか。もう…無理するな」 俺は、こんな事位で死んだりしないから…。そう優しく囁くように言うと、彼の金の瞳が耐え切れずに揺らいだ。 「……っ、ぅ…」 小さな嗚咽を隠すように、俯いて涙を堪えていたが、やがて堪えられずに、ナッシュの胸に縋りつく。アリアは泣き叫んだりもせずに、ただ静かに涙を零していた。…それは、今も外に降り続ける細い雨にも似て、ひどく静かなものだった。 |